濱口梧陵
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 濱口梧陵@映画の森てんこ森
濱口梧陵
濱口梧陵
2005年1月24日月曜日 「シャイな幸の独り言」トップへ
目次
■津波・Tsunami
■濱口梧陵
■濱口梧陵の年譜と時代背景
■稲むらの火
■濱口梧陵の史蹟巡り(写真集)

 濱口梧陵に感銘を受けた。濱口梧陵と呼び捨ててはいけない。
 濱口梧陵先生を大尊敬した。正(まさ)しく偉人だ。これほどの大偉人・濱口梧陵先生を知らなかった幸はちょっと恥ずかしいなと思う。

 早速、濱口梧陵先生を詳しく調査してみた。恐れ多くも以後は濱口梧陵先生の敬称「先生」は省かせていただく。

 1月21日のNHKの「その時歴史は動いた」番組の再放送の録画「百世の安堵をはかれ 安政大地震・奇跡の復興劇」を観て、大いに感動して作成した「津波・Tsunami」ファイルでも少し触れた記事を、再度下に紹介する。

濱口梧陵(浜口儀兵衛)
ヤマサの歴史【ヤマサ醤油】
■ 濱口(浜口)梧陵について
 濱口(浜口)梧陵は濱口(浜口)儀兵衛ともいう。

 文政3年(1820年)紀州(紀伊国有田郡)広村(現在の和歌山県広川町)で生まれ育つ。
 31の歳に佐久間象山の門に入る。
 34歳で儀兵衛と改名して家督を相続。代々続いている醤油店(現在のヤマサ醤油)を七代目として経営にあたる。
 安政元(1854)年、濱口(浜口)梧陵35歳の時に、紀州広村において安政大地震に遭遇。濱口(浜口)梧陵は私財を注ぎ込み震災の救済と復興にあたる。

 濱口(浜口)梧陵はヤマサ醤油7代目という実業家でもあり、私欲を顧みない社会福祉事業家や政治家でもある。佐久間象山、勝海舟、福沢諭吉など多くの歴史上の人物と広い交流を持った知識人でもあり、近代日本の発展に大きな足跡を残している。
※詳しい濱口梧陵の年譜はこちら

 濱口梧陵は、幕末から明治維新を経て明治の新風の中に生きた、謂わば日本の激動の時代の偉人である。明治新政府の中で中央政治と和歌山の地方政治に参画する。映画『 ラスト サムライ (2003) THE LAST SAMURAI 』に観られる士族の没落をどのように理解していたか、幸には知りようがないが、少なくとも武士の持ち合わせていない民主的な思想と民生的福祉的な概念は濱口梧陵の幼少の頃から培われていたのではないかと思う。

 濱口梧陵は、濱口家の分家に生まれ、12歳で本家の後継ぎ養子となって江戸、銚子と赴任する。家業である醤油ビジネスに大いに励む。

 ヤマサ醤油のHPには、濱口梧陵は、<幕末、銚子で開業していた蘭学医・三宅艮斎と交流を持ち、西洋に興味のあった梧陵は、1852年(嘉永5年)、「稽古場」を開設しました。西洋文明の長を探り、青少年の人材の育成に務めたこの稽古場は、耐久社、耐久学舎、耐久中学と名を変え、今日では和歌山県立耐久高校として、長い歴史を誇っています。また、1858年(安政5年)、江戸の西洋医学所が火災のため焼け落ちたときは、700両を寄付し再建。現在の東京大学医学部の基礎を作りました。>とある。

 また、濱口梧陵は、<幕末に生まれ、7代濱口儀兵衛という実業家としての働きと共に、日本の発展のために力をつくした梧陵は、卓抜した識見や人間としての気宇の大きさから、時代の政府にも招かれました。和歌山藩の勘定奉行や和歌山県初代の県会議長を経て、中央政府にも召されて初代駅逓頭(郵政大臣に相当)になり、近代的な郵便制度の創設にあたりました。また、佐久間象山、菊池海荘、福田兵四郎、勝海舟、福沢諭吉など多くの知識人と広い交流を持ち、勝海舟は梧陵の死後に、その碑に文をささげています。 >とも紹介されている。
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 濱口梧陵の偉大さはこれだけに止まらない。明治の文豪・ラフカディオ・ハーン(Lafcadio Hearn 小泉八雲)が、1897年にボストンとロンドンの出版社から同時に世に出した著書「仏の畠の落穂」(Gleanings in Buddha-Fields)の「生ける神」(A Living God)と題する章の後半で、濱口梧陵を紹介する。今に言う「防災のお手本」である。この出版の40年後、濱口梧陵と同じ郷里の教師中井常蔵氏が物語「稲むらの火」として書き直して、昭和12年(1937年)、初等科国語(小学国語読本)として採択されることになる。

 この学校国語教本「稲むらの火」には、1854年(安政元年)11月4日、5日の2回にわたって襲った東海及び南海の大地震の時に、たまたま紀州・広村(現在の広川町)に戻っていた濱口梧陵が、五兵衛という名の老人として登場する。五兵衛=濱口梧陵は地震の後の海水の干き方などから、とっさに大津波が来ることを予期する。五兵衛=濱口梧陵は村人を避難させるため、自分の田圃(たんぼ)に積んであった収穫された稲束(稲むら=稲叢)に火をつける。それを道標(みちしるべ)として、暗闇の中で逃げまどう村人を高台にある広八幡神社の境内に導くためだ。この濱口梧陵の機転が、津波の急襲を村人に知らせ、村人の命を救ったといわれている史実が、分かりやすく描かれている。(※詳しくは幸の「稲むらの火」現代仮名遣い書き直しページ参照
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 濱口梧陵の活躍は、「稲むらの火」で述べられている人命救助だけでは止(とど)まらない。津波被害の後、広村の復旧作業と復興事業に自らの資財をなげうって取り組む。
 濱口梧陵は、津波の壊滅的な被害を受けた広村の村民のために、救援家屋の建設や農漁具の調達などを行い、村民の離村を防止し、コミュニティーの維持につとめた。また、将来の津波被害を防止するため、東浜口家の吉衛門と相談し、中世畠山氏が築いた石垣の後方に堤防を作る計画を立てた。1855年(安政2年)から4年間を費やして、銀94貫344匁(353.79kg)、現在の約1億5千万円の私財を投じ、延べ人数56.736人を要し、大防波堤の建設を竣工させた。堤防の建設に携わる村人の給料と建設資材費など、云わば本来なら個人のレベルでは到底行えない“公共事業”を濱口梧陵が行ったことになる。この大防波堤こそ現存する広村堤防である。全長600m、高さ5m、根幅20m、天幅2m、海側に松、陸側に櫨(ハゼ)の木が植えられたその姿は、今でもその景観をたたえており、国の史跡に指定されている。
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 実際この広村堤防建設の大事業は、濱口梧陵(この頃は儀太郎と称した)が、37歳の 1855年(旧暦安政3年2月30日)の年に着工する。良き相談者であった東濱口家の濱口吉衛門(ヒゲタしょうゆ)も工事費用を負担し、庄屋レベルでは炊き出しをし合い、互いに面倒を見合って、力を合わせて工事を進めていったようだと、広八幡神社宮司である佐々木孝平氏のお話を伺った。しかし、この大事業は濱口梧陵の醤油店の財政を圧迫した。濱口梧陵は、堤防建設の途中で、安政の東海地震で損害を受けた江戸の店の建て直しをはかるため上京する。濱口梧陵は、生業である醤油事業と郷里の復興事業と百年の計である防災事業(堤防建設)両立に苦慮する。一通の手紙が広村から届く。工事再開を期する願いと工事竣工の暁には、広村の鎮守、広八幡神社濱口梧陵を祀るという村人の熱心さで一気に悩みは吹っ切れる。その後家業は順調、工事の軍資金も追い金できる。そして銚子の店では醤油職人はじめ皆が、有田広村では村人たち皆がそれぞれ協力しあって、結果その両方を成功させる。
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 幸が思うに、どんな偉大な行いも、中心となる人物がいて、それを補佐し、動かす人物がいて、その下に多くの労役をする人たちがいなければ成し遂げられない。中には異論を唱えた者もいるだろう。しかし彼らを一つに纏めたのは津波の脅威だ。この広村堤防の建設のシステムを図に表せば、堤防の断面の台形の形そのものだと思う。彼らは3年10ヶ月にわたって、自分たちの生活の中に防災の理念を取り込みながら生きたに違いない。

 濱口梧陵の百年の計である広村堤防の効果は長い時間を経て現れる。92年後の昭和21年12月21日に再び広湾広村を襲った昭和南海地震の津波で蒙った被害は、この広村堤防の存在のお陰で、安政の南海大地震の津波と比べてはるかに小さな被害に抑えることができたという。
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 これらのことから、濱口梧陵という人は、ヤマサ醤油7代目という実業家としての活躍のみならず、人材育成や学問の発展のための労を惜しまない、卓抜した識見と先見の明をもち、人間としての度量の大きさと機運を備えた人物であったことがわかる。と同時に、当時の広村の村民の津波災害の認識の深さと、不屈の精神と崇高な自立心が窺い知れる。
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 折りしも、神戸市で開かれていた国連防災世界会議は一昨日1月22日に閉幕となった。今回のスマトラ沖大地震・インド洋大津波は「未曽有の災害」と表され、「災害予防の文化」の強化を「兵庫宣言」に謳(うた)った。
 今こそ、災害大国でもある日本は、濱口梧陵をお手本にして、世界の災害における日本の役割を示したい。安政の偉人・濱口梧陵「稲むらの火」を日本の平成の語り部として、全世界に津波の怖さとその災害対策と災害文化の情報を、和歌山県有田郡広川町から発信してもらいたい。そして、日本の指導者的立場の人は、濱口梧陵に劣らぬよう長期展望と戦略を心がけ、私利私欲を顧みない社会福祉事業や日本の国家における真の政治活動に心血を注いでもらいたいものだ。

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参考資料:「映画の森てんこ森」映画タイトル集
       http://www.coda21.net/eiga_titles/index.htm
      IMDb
      allcinema ONLINE
      Nostalgia.com
      CinemaClock.com
      濱口梧陵と広村堤防講義資料 by 佐々木公平(広八幡神社宮司)
      NHKの「その時歴史は動いた」
       http://www.nhk.or.jp/sonotoki/sonotoki_syokai.html#02
      和歌山県有田郡広川町教育委員会から提供いただいた資料類
      濱口梧陵小伝
       (濱口梧陵翁五十年祭協賛会 杉村広太郎編集兼発行者)
      和歌山県有田郡広川町役場ホームページ
       http://www.town.hirogawa.wakayama.jp/
      ヤマサの歴史【ヤマサ醤油】
       http://www.yamasa.com/history/sevens.html
      ヒゲタしょうゆ
       http://www.higeta.co.jp/
      中井常蔵氏が著した物語「稲むらの火」
       http://www.inamuranohi.jp/
      幸編集ファイル「稲むらの火」
      フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
       http://ja.wikipedia.org/
       http://ja.wikipedia.org/wiki/1860%E5%B9%B4
      幕末の年表 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%95%E6%9C%
AB%E3%81%AE%E5%B9%B4%E8%A1%A8
 ※タイトル画像は、幸が広川町を訪問して撮影した写真を編集して、タイトルイメージとして使用しています。
Text by Sati
coda21「映画の森てんこ森」幸田幸。
coda_sati@hotmail.com
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