年齢 |
年代 |
ことがら |
1歳 |
1820年(文政3年) |
濱口梧陵、旧暦6月15日、紀伊国有田郡広村に生れる。七太と名づけられる |
2歳 |
1820年(文政4年) |
濱口梧陵の父、七右衛門旧暦1月18日に没す。享年22歳 |
6歳 |
1825年(文政8年) |
文政の外国船打払令。
濱口梧陵 |
7歳 |
1826年(文政9年) |
濱口梧陵の異父妹つき生まれる |
9歳 |
1828年(文政11年) |
シーボルト事件
濱口梧陵の異父弟松三郎生まれる |
10歳 |
1829年(文政12年) |
濱口梧陵の異父弟松三郎没す |
11歳 |
1830年(天保元年) |
濱口梧陵の異父弟亀之助生まれる |
12歳 |
1831年(天保2年) |
濱口梧陵、本家の養嗣子となり儀太と称し、初めて江戸を経て銚子に赴く |
13歳 |
1832年(天保3年) |
濱口梧陵の異父弟亀之助没す |
15歳 |
|
濱口梧陵、旧暦5月に元服して儀太郎と改名する |
18歳 |
1837年(天保8年) |
大塩平八郎の乱
濱口梧陵の祖父、灌圃。旧暦10月4日没す |
20歳 |
1839年(天保10年) |
蛮社の獄
濱口梧陵、旧暦11月湯浅町の池永右馬太郎の娘を娶(めと)る |
21歳 |
1840年(天保11年) |
アヘン戦争(-1842年)
濱口梧陵の異父妹つき没す |
22歳 |
1841年(天保12年) |
水野忠邦の天保の改革
濱口梧陵 |
24歳 |
1843年(天保14年) |
濱口梧陵、作詩56首あり |
29歳 |
1848年(嘉永元年) |
濱口梧陵の娘たき旧暦11月に生まれる |
31歳 |
1850年(嘉永3年) |
濱口梧陵、初めて佐久間象山の門に出入りする |
32歳 |
1851年(嘉永4年) |
ジョン万次郎、アメリカ船で帰国
濱口梧陵、広村崇義団を興す |
33歳 |
1852年(嘉永5年) |
濱口梧陵、紀州に帰り青年子弟の教育に携わる
「稽古場」(和歌山県立耐久高校の前身)を開設 |
34歳 |
1853年(嘉永6年) |
ペリー、浦賀に来航
十二代将軍徳川家慶死去、徳川家定、十三代将軍に就任
濱口梧陵、3月儀兵衛と改名して家督を相続する
濱口梧陵の養父、保平が旧暦4月13日没す
濱口梧陵の娘みち旧暦12月に生まれる |
35歳 |
1854年(安政元年) |
ペリー、再来航。日米和親条約締結
12/23(旧暦11/4)安政の東海地震(M8.4)起こる
12/24(旧暦11/5)安政の南海地震(M8.4)起こる
広村に津波が襲来して大被害を受ける。
濱口梧陵、全力をあげてこの救済にあたる |
36歳 |
1855年(安政2年) |
安政の大地震。旧暦11月11日、下町を中心に被害。死者7千人以上
濱口梧陵、被害を受けた村人の救済事業を継続
濱口梧陵、濱口吉衛門と相談し広村堤防建設に旧暦2月着工
濱口梧陵、浦組を組織し調練する。この年より約4年間、約銀94貫を費やし、大防波堤の建設を進める。 |
37歳 |
1855年(安政3年) |
濱口梧陵、旧暦2月30日上京する |
39歳 |
1858年(安政5年) |
十三代将軍家定、死去
日米修好通商条約締結
安政の大獄
徳川家茂、十四代将軍に就任
江戸の西洋医学所が火災のため焼け落ちる。
濱口梧陵、700両を寄付し再建。現在の東京大学医学部の基礎を作る
濱口梧陵の進めた広村堤防が、旧暦12月竣工する
|
40歳 |
1859年(安政6年) |
濱口梧陵、種痘館再興のため金三百両を寄附する |
41歳 |
1860年(安政7年) |
桜田門外の変で、大老井伊直弼が暗殺される
小栗上野介ら遣米使節はポウハタン号で渡米。サンフランシスコで護衛艦の咸臨丸と再会 |
42歳 |
1861年(万延元年) |
1861年-1865年 アメリカ南北戦争
1861年-1870年 イタリア独立戦争 |
43歳 |
1862年(文久2年) |
坂下門外の変
寺田屋事件
生麦事件
リンカーン、奴隷開放宣言を出す |
44歳 |
1863年(文久3年) |
新選組結成
薩英戦争
リンカーン、ゲティスバーグ追悼演説(人民の人民による人民のための政治) |
45歳 |
1864年(元治元年) |
天狗党の乱
池田屋事件
禁門の変
四国連合艦隊下関砲撃事件
第一次長州征伐
高杉晋作、下関で挙兵(長州藩の内乱)
濱口梧陵のヤマサ醤油が幕府より特に品質に優れた醤油として認められ、最上醤油の称号を得る |
46歳 |
1865年(慶応元年) |
英米仏蘭四ヶ国艦隊、兵庫沖に来航。条約勅許を求める。朝廷、条約勅許を出す |
47歳 |
1866年(慶応2年) |
薩長同盟成立。
幕府、英米仏蘭と改税約書(江戸条約)に調印
第二次長州征伐
十四代将軍家茂、死去
慶応の幕政改革 |
48歳 |
1867年(慶応3年) |
15代将軍、徳川慶喜の大政奉還が行われ、江戸幕府が滅ぶ
王政復古の大号令 |
49歳 |
1868年(明治元年) |
濱口梧陵、旧暦1月22日、藩政改革に際し、抜擢されて勘定奉行となる
鳥羽・伏見の戦い(戊辰戦争)始まる
五箇条の御誓文・五榜の掲示
江戸を東京と改称
福沢諭吉、英学塾を芝に移転し、慶応義塾と改称 |
50歳 |
1869年(明治2年) |
版籍奉還
戊辰戦争終了
濱口梧陵、1月、孔雀之間に参列し、政治に参画する
濱口梧陵、2月、大広間席学習館知事を仰せつかる
濱口梧陵、4月、諸侯に随行して東下る
濱口梧陵、8月、有田郡民生知局事を仰せつかる
濱口梧陵、10月、名草郡民生知局事兼帯を仰せつかる
濱口梧陵、11月、和歌山藩少参事に任ぜられる |
51歳 |
1870年(明治3年) |
平民に苗字を許す。庶民の帯刀禁止
濱口梧陵、実業を嗣子幸三郎に譲る
濱口梧陵、これより梧陵と称する
濱口梧陵、2月、松阪民生局長となる
濱口梧陵、12月、和歌山藩権大参事となる
|
52歳 |
1871年(明治4年) |
廃藩置県(3府72県とし府知事・県令を置く)
濱口梧陵、孫勤太生まれる
濱口梧陵、5月、東京藩庁詰となる
濱口梧陵、7月、駅逓頭(現在の郵政省当)正に任ぜられる
濱口梧陵、8月、駅逓頭(現在の郵政大臣に相当)に任ぜられる
濱口梧陵、和歌山県知事に任ぜられる
濱口梧陵、11月、参事となる |
53歳 |
1872年(明治5年) |
戸籍法の施行
学制の公布
身分族称を皇族・華族・士族。平民とする
福沢諭吉「学問のすゝめ」
濱口梧陵、2月13日参事を免じられる |
54歳 |
1873年(明治6年) |
徴兵令公布
地租改正条例公布
征韓論が敗れ、西郷・板垣・後藤・江藤・副島ら下野(明治6年の政変)
自由民権運動が始まる |
55歳 |
1874年(明治7年) |
愛国党結成・民撰議員設立の建白書提出
北海道屯田兵制度創立
佐賀の乱
板垣退助・片岡健吉ら立志社結成
濱口梧陵の孫慶二4月24日に生まれる |
56歳 |
1875年(明治8年) |
大阪会議・板垣ら愛国社創立
江華島事件起こる
新島襄、同志社英学校創立
濱口梧陵 |
57歳 |
1876年(明治9年) |
日韓修好条規(江華条約締結)
地租改正反対一揆激化(茨城・三重など)
札幌農学校設立
濱口梧陵 |
58歳 |
1877年(明治10年) |
西南戦争(西郷隆盛、鹿児島で反乱、熊本包囲)
東京大学開設
万国郵便連合条約加入
濱口梧陵の孫勉三生まれる |
59歳 |
1878年(明治11年) |
郡区町村編制法・府県会規則・地方税規則の三新法制定
大久保利通、東京紀尾井坂で暗殺される
濱口梧陵、自修舎維持のために尽力する |
60歳 |
1879年(明治12年) |
東京府会開く(府県会の初め)
琉球藩を廃止し、沖縄県を設置(琉球処分)
米大統領グラント来日
濱口梧陵、和歌山県議会初代議長に選任される
濱口梧陵の孫勉三没し、孫四郎生まれる |
61歳 |
1880年(明治13年) |
濱口梧陵、県会開設と共に最初の和歌山県会議長に当選する
濱口梧陵の実母しん、9月18日没す。享年78歳 |
62歳 |
1881年(明治14年) |
国会開設の勅諭、自由党結成
濱口梧陵の孫勇五生まれる |
63歳 |
1882年(明治15年) |
嘉納治五郎により、柔道が創始される
濱口梧陵、木国(ぼっこく)同友会を組織する |
64歳 |
1883年(明治16年) |
鹿鳴館開館
濱口梧陵 |
65歳 |
1884年(明治17年) |
フランス・ベトナム条約(パトノートル条約)締結,仏領インドシナの一部としての植民地支配開始
濱口梧陵、5月30日横浜を出帆し渡米の途に上る |
66歳 |
1885年(明治18年) |
伊藤博文が初代内閣総理大臣に就任
濱口梧陵、4月21日米国ニューヨークにおいて客死する |