「坂本龍馬/暗殺 - Wikipedia」
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後藤象二郎の依頼で、慶応3年10月24日に越前へ出向き、松平春獄の上京を促して三岡八郎と会談した後、11月5日に帰京した。
11月15日、龍馬は宿にしていた河原町の蛸薬師で醤油商を営む近江屋新助宅母屋の二階にいた。当日は陸援隊の中岡慎太郎や土佐藩士の岡本健三郎、画家の淡海槐堂などの訪問を受けている。午後8時頃、龍馬と中岡が話していたところ、十津川郷士と名乗る男達数人が来訪し面会を求めて来た。従僕の藤吉が取り次いだところで、来訪者はそのまま二階に上がって藤吉を斬り、龍馬たちのいる部屋に押し入った。龍馬達は帯刀しておらず、龍馬はまず額を深く斬られ、その他数か所を斬られて、ほとんど即死に近かった。龍馬は息絶える間際、中岡に「俺は脳をやられた、もういかん」と語ったという。中岡と藤吉も致命傷を負い、藤吉は翌日、中岡は翌々日の17日に死亡したが、中岡は死の直前まで意識があり、事件の証言を多く残した。
その後、新選組から分離した御陵衛士の伊東甲子太郎(または他の御陵衛士隊士)が現場に残された鞘を新選組の原田左之助のものと証言したこともあり、新選組が強く疑われた。
また、海援隊士たちは紀州藩による、いろは丸事件の報復であると疑い、12月6日に陸奥陽之助らが紀州藩御用人・三浦休太郎を襲撃して、三浦の護衛に当たっていた新選組と斬り合いになっている(天満屋事件)。慶応4年(1868年)4月に下総国流山で出頭し捕縛された新選組局長・近藤勇は土佐藩士の強い主張によって斬首に処された。また、新選組に所属していた大石鍬次郎は龍馬暗殺の犯人の疑いで捕縛され拷問の末に自らが龍馬を暗殺したと自白するも、後に撤回している。
明治3年(1870年)、箱館戦争で降伏し捕虜になった元見廻組の今井信郎が、取り調べ最中に、与頭・佐々木只三郎とその部下6人、今井、渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂隼之助、土肥伴蔵、桜井大三郎が坂本龍馬を殺害したと供述し、これが現在では定説になっているが、薩摩藩黒幕説、土佐藩黒幕説、果てはフリーメイソン陰謀説まで様々な異説が生まれ現在まで取り沙汰されている。
墓所は京都市東山区の京都霊山護国神社参道中腹。墓碑は桂小五郎(木戸孝允)が揮毫した。なお、靖国神社にも祀られている。
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