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【恭子の動画映像ブログ】 2011年6月16日(木)公開予定
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アルバート公 |
映画『 ヴィクトリア女王 世紀の愛 (2009)
』の解説
映画『 ヴィクトリア女王 世紀の愛 』の予告編
※動画はgagamovieへリンクで掲載
アルバート公
【アルバート公】
今日のタイトルは「アルバート公」です。
そしてYouTube動画映像版は2009年の映画『ヴィクトリア女王 世紀の愛』の予告編です。
映画『 ヴィクトリア女王 世紀の愛 (2009) THE YOUNG VICTORIA 』の詳しい映画解説はこちらから。
■ヴィクトリア女王
本映画『 ヴィクトリア女王 世紀の愛 (2009)
THE YOUNG VICTORIA 』でヴィクトリア女王を演じるのは、エミリー・ブラント
Emily Blunt (
『 アジャストメント (2011) THE ADJUSTMENT BUREAU 』でエリース・セラス
『 ガリバー旅行記 (2010) GULLIVER'S TRAVELS 』でメアリー王女
等)で、ヴィクトリア女王の夫・アルバート公を演じるのは、ルパート・フレンド
Rupert Friend (
『 ヴィクトリア女王 世紀の愛 (2009) THE YOUNG
VICTORIA 』 アルバート公
『 プライドと偏見 (2005) PRIDE & PREJUDICE 』 Mr.ウィッカム
『 リバティーン (2004) THE LIBERTINE 』 ビリー・ダウンズ
等)です。
映画『 ヴィクトリア女王 世紀の愛 (2009) THE YOUNG
VICTORIA 』ではもちろんタイトルどおり、ヴィクトリア女王がヒロインですが、アルバート公なくしてヴィクトリア女王の治世とビクトリア朝(ビクトリア時代)がなかったのではと思います。
映画でも描かれている通り、アルバート公とヴィクトリア女王の夫婦仲は非常に良く、多くの子供達に恵まれています。
1841年、メルバーン(メルボルン)子爵が首相を再び辞した際には、本来何ら公の地位も権限のないアルバート公が妥協案をもたらして、ビクトリア女王と新首相ピールを仲裁しました。この一件で軋轢が生じたものの、間もなく妥協が成立し、以後20年余りにわたり、アルバート公は「良き夫」としてビクトリア女王を公私ともに支えていくことになります。
アルバート公の育ちを見ると、父エルンスト1世は、根っからの女好きで、母のルイーゼを裏切り続ける家庭で育っています。そのため、母ルイーゼ自身も傭兵隊長のアレクサンダーと浮気をして、エルンストから離婚を言い渡されています。これによりアルバート公は母親ルイーゼに会うことも出来ませんでした。このような不幸な家庭環境で育ったアルバート公は、両親を反面教師として、ヴィクトリア女王との家庭を大切に考えて、大変誠実な夫となっています。
また、アルバート公はドイツ人の美徳である勤勉さと合理主義を活かして、王室の出費の軽減を行っています。
アルバート公には優れた財政の才能がありました。今で言う“kaizen
カイゼン”(無駄遣いの徹底見直し・経費削減・人材とシステムの合理化)です。アルバート公の“kaizen
カイゼン”による数々の改革によって王室内部の混乱が一掃されたおかげで、王室費は全体として2万5,000ポンドもの節減になりました。
アルバート公はこの他にもコーンウォール公領とランカスター公領からの収入を、わずか1年の間に大幅に増加させています。しかし、数々の成功にも関わらず、アルバート公は「けちな男」や「金に細かい男」などと悪口を言われるようになってしまいます。増えた分の収入は、田舎に別邸を建てるなど、アルバート公によって有効に使われました。やがてアルバート公はワイト島に広大な土地を購入し、オズボーン・ハウスを建て、毎年家族と過ごすようになっています。
アルバート公の公的地位は、1857年になって、議会はアルバート公に対し正式に「王配殿下」(HRH
the Prince consort)の称号を与えています。
アルバート公は結婚21年目の1861年12月14日、42歳で死去します。ヴィクトリア女王は悲嘆し、常に喪服を着用するようになり、数年に渡り公の場に姿を現さなくなりました。大ショックであったことでしょう。
この事は、いかにアルバート公はヴィクトリア女王にとって良き夫、公私にわたる良き相談相手、時にはヴィクトリア女王のお父さん的存在?であったか物語っています。
以下に、「アルバート公」-Wikipedia
を引用、一部編集して「アルバート公」について書きます。画像は
Wikipedia 提供です。
■アルバート公
アルバート公は、ザクセン=コーブルク=ゴータ公子アルバート(Francis
Albert Augustus Charles Emmanuel, Prince
of Saxe-Coburg-Gotha, 1819年8月26日 - 1861年12月14日)は、イギリスのヴィクトリア女王の夫。ザクセン=コーブルク=ゴータ公子でザクセンの公(Herzog
zu Sachsen)。
イギリス女王ヴィクトリアの夫として、議会から唯一公式に「王配殿下」(プリンス・コンソート、His
Royal Highness the Prince consort)の称号を認められた人物である。父はザクセン=コーブルク=ザールフェルト公フランツ・フリードリヒの長男で、後のザクセン=コーブルク=ゴータ公エルンスト1世。母はザクセン=ゴータ=アルテンブルク公アウグストの娘で、エルンストの従妹のルイーゼ。ヴィクトリア女王とは従姉弟に当たる。
アルバート公
【「アルバート公」のデータ】
□アルバート公の全名:フランシス・アルバート・オーガスタス・チャールズ・エマニュエル
□アルバート公の表記:Francis Albert Augustus
Charles Emmanuel
□アルバート公の呼称:ザクセン=コーブルク=ゴータ公子アルバート
□アルバート公の表記:Prince Albert of Saxe-Coburg
and Gotha
□アルバート公の出生:1819年8月26日
□アルバート公の死去:1861年12月14日(満42歳没)
□アルバート公の配偶者:ヴィクトリア女王
□アルバート公の子女
ヴィクトリア(1840年-1901年) - ドイツ皇帝フリードリヒ3世皇后
アルバート・エドワード(1841年-1910年)
- エドワード7世
アリス(1843年-1878年) - ヘッセン大公ルートヴィヒ4世大公妃
アルフレッド(1844年-1900年) - ザクセン=コーブルク=ゴータ公・エディンバラ公爵
ヘレナ(1846年-1922年) - シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公子クリスティアン夫人
ルイーズ(1848年-1939年) - アーガイル公爵ジョン・ダグラス・サザーランド・キャンベル夫人
アーサー(1850年-1942年) - コノート公爵
レオポルド(1853年-1884年) - オールバニ公爵
ベアトリス(1857年-1944年) - バッテンベルク公ハインリヒ・モーリッツ公妃
□アルバート公の父親:ザクセン=コーブルク=ゴータ公エルンスト1世
□アルバート公の母親:ルイーゼ
□アルバート公の称号及び敬称:
*(平静平安なる公家の)殿下 ザクセン=コーブルク=ザールフェルトのプリンス・アルバート(His
Ducal Serene Highness Prince Albert of Saxe-Coburg-Saalfield):1819年8月26日
- 1826年11月12日
*(平静平安なる公家の)殿下 ザクセン=コーブルク=ゴータのプリンス・アルバート(His
Ducal Serene Highness Prince Albert of Saxe-Coburg-Gotha):1826年11月12日
- 1840年2月6日
*(王家の)殿下 ザクセン=コーブルク=ゴータのプリンス・アルバート(His
Royal Highness Prince Albert of Saxe-Coburg-Gotha):1840年2月6日
- 1861年12月14日
*王配(王家の)殿下(His Royal Highness
the Prince consort):1857年 6月29日 - 1861年
12月14日
王配の称号は1840年2月から非公式に使用されていた。
【「アルバート公」の結婚】
ヴィクトリアとアルバート公の結婚を積極的に推進したのは、双方の叔父に当たるベルギー初代国王レオポルド1世であった。1836年5月、アルバート公は家族とともにロンドンを訪問し、ケンジントン宮殿でケント公エドワード・オーガスタスの娘である王女ヴィクトリアと対面した。
しかし、当時の国王でヴィクトリアの伯父であるウィリアム4世は、この縁組に賛成せず、ヴィクトリアの相手としてオランダ王ウィレム2世の息子であるオラニエ=ナッサウ家のウィレム・アレクサンダー王子を考えていた。
一方、ヴィクトリアはレオポルド1世の計画を知っていたが、自身はアルバート公との結婚を望んでいた。ヴィクトリアは、金髪に青い瞳をしたハンサムなアルバート公一目ぼれしたのである。ヴィクトリアがレオポルド1世に宛てて、アルバートを紹介してくれた礼を述べる書簡が残っている。
当時イギリス国民は、女王がドイツ系の血筋であったことから、イギリス人の血を濃くするため、イギリス人の夫が望まれた。そのため、女王がアルバート公というドイツ系の青年と結婚することは、国民からあまり歓迎されていなかったようである。
アルバート公は、出産と育児に追われる女王に代わり、公式行事の出席などもこなし、実質上は君主の役割を果たした。しかし、イギリスでの公的地位は、結婚17年後に「王配殿下」(プリンス・コンソート)の地位が正式に与えられるまで、何一つ持っていなかった。
【「アルバート公」の政治力】
◆ 政治への関与
アルバート公は、1841年に長男のエドワードが生まれた前後から、枢密院のメンバーに加わり、ヴィクトリア女王の秘書や顧問を務めた。かつてメルボルン首相は、早くからアルバート公の非凡な才能を見抜き、ヴィクトリア女王に対し「アルバート公は実に頭の切れるお方です。どうかアルバート公のおっしゃることをよくお聞きなさいますように」と進言したという。1834年に首相になったロバート・ピールも、頭脳明晰なアルバート公に接近し、微妙な問題が起きるとまず彼に意見を求めるようになった。ヴィクトリア女王には気まぐれで短気な所があったため、後回しにしたのだった。
◆アルバート公の業績
アルバート公は1851年にはロンドン万国博覧会を大成功させた。この万博の最大の呼び物は「クリスタル・パレス(水晶宮)」と名付けられた、鉄とガラスでできた宮殿だった。アルバート公はこの万博開催においては中心になって準備を進めており、最大の出資者も彼だった。700万人がこの万博を訪れ、収益は経費の倍以上にのぼった。新聞各紙もこの万博の成果を絶賛し、アルバート公がイギリス国民の人気を集めたのは、後にも先にもこの時だけだったという。
【「アルバート公」の晩年】
アルバート公の死去の1ヶ月前、1861年の11月のある日、アルバート公にとって、衝撃的な事件が起きた。外国の大衆紙に、長男エドワードと女優のネリー・クリフデンとの交際が掲載されたのである。2人の仲を言いふらしたのも彼女だった。アルバート公は病身にも関わらず、エドワードの住むイギリスのケンブリッジへと向かった。アルバート公とエドワードの2人の間で何が話し合われたのかは明らかではない。
アルバート公は1861年12月14日、結婚21年目、42歳で腸チフスで亡くなった。しかし、持病の胃痛などの症状とアルバート公の母親も30歳で癌に倒れていた事を見れば、胃癌であった可能性が高い。
※以上、「アルバート公」 Wikipediaより引用・一部編集して掲載しています。
※ヴィクトリア朝 - Wikipedia
※ヴィクトリア女王 - Wikipedia
※アルバート (ザクセン=コーブルク=ゴータ公子)
- Wikipedia
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▼2010.6.16(木)
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