シャイな幸の独り言 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
デュラスとヤン (映画「Cet Amour-la」を観て...) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2002年12月01日日曜日 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
fフランスで出版された本 デュラスとヤン本人です。 |
この頁は、昨日書いた 『デュラス 愛の最終章 (Cet Amour-La) 2001』の読む映画試写会レヴューとして準備したのですが没にするのが惜しいのでアップしました。 これは、年老いた女流作家に惹かれた若者の読者が、彼女と出会い、生活を共にし、そして彼女が死ぬ直前まで、38 歳の年齢差を超えて愛した彼女との宿命的な 16 年間の日々を綴った著書を映画にしたという作品だ。原作はアンドレア自身が書いた『Cet Amour-la (Le Livre de Poche; (Litterature generale) ; ISBN : 2253150002)』で日本語訳は『デュラス、あなたは僕を本当に愛していたのですか』(河出書房新社刊)である。 カーン大学で哲学を専攻する学生だったヤン・アンドレア(本名ヤン・ルメ)は、マルグリット・デュラスという女流作家の自らの映画『インディア・ソング(India Song/1973年Gallimard出版)』を観てデュラスの作品のファンになる。彼は彼女の作品を片っ端からむさぼるように読む。そして五年間毎日ずっと手紙を書き続けるという熱狂ぶりだ。時には一日数通も。しかしデュラスは返事を出さない。なぜならデュラスは読者から多くの手紙が送られてきてもどんな手紙にも返事を出さないのが常なのである。 |
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ヤンは手紙を出すのをやめた。そして自殺まで考えたらしい。そしてある時、デュラスから「会いに来るように」と書かれた手紙が届く。ヤンが直ぐにカーン
(Caen) からトゥルーヴィル (Trouville) の彼女のアパルトマンを訪ねる。 このトゥルーヴィルで会った日からデュラスとヤンが一緒に生活し始める。マルグリット・デュラス 66 歳、ヤン・アンドレア 28 歳、 1980 年の夏である。 愛と酒と書くことに生きたマルグリット・デュラスという女流作家を知るには、先ず彼女の活動を年表にしてみるのが一番である。幸は大学で仏文学を専攻していてデュラスを卒論にしようと思って準備したことがある。当時のノートの年表に少し付け加えてエクセルで作成したので、以下に紹介しておく。 |
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マルグリット・デュラス(Marguerite Duras)の本名は、マルグリット・ドナディユー(Marguerite Donnadieu)という。仏領時代の南ベトナム生まれである。教職につく両親に生まれ、兄二人。早くして父を亡くした。フランス語を教えピアノ弾きで生計を立てていた母についてカンボジアに移り住む。そこで母は土地を購入するが、やせた塩田で米栽培がうまく行かず、一家四人は食うに困る。彼女の少女時代の自伝として「太平洋の防波堤」や「愛人」(清水徹訳 河出書房新社)を読むと、暴力的な長男を可愛がる母、すぐ上の兄へのデュラスの思い、中国青年との性的関係などが描かれていて、彼女がよくわかる。 デュラスが 18 歳の時フランスに帰国する。パリのソルボンヌ大学で法律・数学・政治学を学んだデュラスは、卒業後すぐ就職し、39年には詩人ロベール・アンテルム(Robert Anthelm)と結婚する。時代は第二次世界大戦。夫と共にレジスタンスに入り、後の大統領フランソワ・ミッテランの下で政治活動をする。その間に立て続けに、初産は死産、愛する兄の死という不幸を経験する。その苦しみの中、父の持っていた土地のある村の地名「デュラス」をペンネームとして“Le Impudents”「あつかましき人々」(田中倫郎訳 河出書房新社)を発表して、作家としてデヴューする。彼女の父の話はこの作品の中に語られている。 その後、ユダヤ人迫害のため夫アンテルムはドイツ・ゲシュタポに逮捕されベッケンワルド強制収容所に送還される。しかし奇跡的にダッカウ収容所から生還する。 以前から付き合っていたディオニ・マスコロ(Dionys Mascolo)の存在もあり離婚を考えていたデュラスは、アンテルムの看病をして彼の病状の回復を待って、46年に離婚。すぐディオニ・マスコロと結婚し翌年に息子ジャン(Jean)が誕生する。この頃のデュラスの心境やいわば三角関係の葛藤は、作品“Le Douleur”(「苦悩」)の中で語られている。 第二次世界大戦後、デュラスは雑誌オブセルバトゥール(Observateur)の記者として働き始める。そして“Un Barrage Contre Le Pacifique”「太平洋の防波堤」を発表。好評を得るが惜しくもゴンクール賞(※1)を逸する。 彼女の映画への熱情と拘りは、後のこの作品の映画化で、原作を歪曲した脚本にデュラスは不満を持ったことから始まったらしい。そして、59年にはアラン・レネ(Alain Resnais)監督と共に映画“Hiroshima Mon Amour” 「ヒロシマ・私の恋人」を撮り、この作品はアカデミー脚本賞にノミネートされた。 デュラスはこのようなテキスト・映画・舞台などの芸術活動だけてなく、政治学を専攻しただけあって、政治活動にも力をいれ、68年にはアルジェリア戦争への反戦運動そしてドゴール派の反対運動も行った。然し、私生活では男運に恵まれず、二人目の夫マスコロが去り、孤独を紛らわすためか徐々に酒の量が増し、最後はアルコール依存症に悩まされることとなってしまう。そのような状況のなか、80年にデュラスはヤン・アンドレア(Yann Andrea)に宿命的に出会う。この辺りはこの頁の冒頭に記述してある。 ヤン・アンドレアは最後までデュラスを支え続けた。彼は、益々進行するアルコール依存症の治療のため、デュラスに入院を勧める。なんとか退院できるまでに回復はするが、幻覚に悩まされれ続けたという。幸は詳しくは解らないが年齢的に見て老人痴呆症の兆候があったのではないかと思う。ヤンはこの彼女のアルコール中毒との闘いを一部始終観察し纏め上げて、“M.D”とタイトルして83年 Editions de Minuit から出版する。 1984年の“L'Amant”(「愛人」)はこんな中から発表される。ヤンのデュラスを描いた“M.D”に影響され、デュラスは自分自信を見つめなおそうとして、執筆したのが、この“L'Amant”(「愛人」)である。フランス人にとってアジアでのセンセーショナルな話題で世界を席巻した。世界中でまたたく間にベストセラーとなり、今ではフランス3大監督の一人として名高いジャン=ジャック・アノー(Jean-Jacques Annaud)監督、ジェイン・マーチ(Jane March)、レオン・カーフェイ(Leung Kar-fai)共演で映画化もされた。そしてこの作品で、デュラスはあの34年前「太平洋の防波堤」で共産党員のレッテルを貼られて逃がしたといわれるゴンクール賞を受賞する。この作品は1,500万部を上回るベストセラーになった。そしてデュラスの名は世界中に知れ渡った。この映画は、当時、主人公とほぼ同じ年だった幸には刺激が強く、ドキドキして観たことを覚えている。 その後もヤン・アンドレアに精神的にも肉体的にも支えられ、“Les Yeux Bleu Cheveux Noir”(「青い目 黒い髪」)、“Emily L.”(「エミリー・L」)、“L'Amant de la Chine du Nord”(「北の愛人」)などを次々と発表し、95年の“C'est Tout”(「これでおしまい」)を最後に、 1996年 3 月 3 日、パリ6区のサンジェルマン・デ・プレ近くのブノア通りのアパルトマンの自宅にて息を引きとった。 82 歳だった。ヤンは彼女の死まで 16 年間彼女を支え、共同作業し、慰め、看病し、愛しんだ。 愛は人の数だけ形がある。マルグリット・デュラスとヤン・アンドレアの求めた愛は、決して定型にとらわれたものではないが、その存在だけは認識できると信じた。その愛の存在は魔法のように彼らを操った。つかの間の喜びと多くの苦痛と忍耐を二人に強いた。しかし、ヤンにとって彼女の不在そのものが人生の行間である。観るものの人生観が大きくこの映画の評価に左右するように思える。 真実はどうであれ、是非とも先ず原作を読んで、映画を観て、愛についてあなたの近くの彼と語りあって下さい。
(※1)ゴンクール賞(Prix Goncourt) フランスでもっとも権威ある文学賞。美術評論家、作家、歴史家でもあったゴンクール兄弟の遺志により、1903年に設立。その年に発表された最良の散文作品、とくに小説を対象に与えられる。若く、独創性にあふれた作家を対象としているが、ベテラン作家が選ばれることもある。因みに2001年のゴンクール賞は、Jean-Christophe Rufin(ジャン-クリストフ・リュファン)氏の<Rouge Bresil(赤いブラジル)>が選ばれたらしい。 |
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decembre 30, 2002 par Sati Coda |
coda21「映画の森てんこ森」幸田幸。 | |||||||
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